「けいあん」とは?

言葉 詳細
慶安

概要 (Wikipediaから引用)

慶安(けいあん)は、日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1651年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。 改元 正保5年2月15日(グレゴリオ暦1648年4月7日) 「正保」が「焼亡」に繋がると批判が起きたため改元 慶安5年9月18日(グレゴリオ暦1652年10月20日) 承応に改元 出典 『周易』の「乃終有慶、安貞之吉、応地無疆」から。 「どんな時も友と仲良くし、助け合えば吉である」という意味である。 慶安期におきた出来事 2年2月 慶安御触書発布慶安御触書はこの年に発布された幕府の農民統制策であるとされてきたが、近年は幕法ではなく元は甲斐国に通用していた農民教諭書で、元禄10年に成文化された甲府藩の藩法が版本として流通する過程で慶安2年発布の幕法であるとする伝承が付随したものであると考えられている。

慶庵

概要

Wikipediaからデータを取得しようと試みましたが該当するデータがありませんでした。

桂庵

概要 (Wikipediaから引用)

桂庵 玄樹(けいあん げんじゅ、1427年(応永34年)- 1508年6月28日(永正5年6月1日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。 長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺の惟肖得巌や景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して蘇州などを遊学する。1473年、日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年、島津忠昌に招かれて大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で儒学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481年)して宋学の普及に努めたことから、薩南学派の祖として名を成した。 日本で初めて朱熹の『四書集註』を講義した岐陽方秀が施した訓点を玄樹が補正し、更にそれを南浦文之が改訂したのが「文之点」である。